文五郎の死と文楽  芸一筋に善意の人生  昭和37年2.25 毎日新聞(朝)追悼・山口廣一 

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 死んだ文五郎は
文楽座のトレードマークだった。このトレードマークは全国津々浦々でも通っていて、あるいはその名は世界的(?)であったかもしれない。文楽などまったく見向きもせない若い世代の人たちでさえ、吉田文五郎と聞けば、それが高名の人形つかいだということくらいは知っていよう。
 今日の文楽はなんといっても古色ソウ然たる伝統芸術だ。それは三百年以上におよぶ長い歴史を背負っている。いいかえればその歴史の古さが今日の文楽の高貴さなのである。そこへゆくと、あの古色ソウ然たる九十翁・吉田文五郎の存在は、そのまま文楽のそうした古い歴史の高貴さを象徴していたのである。文五郎の偉さは必ずしも彼の芸術が立派だったばかりでない。彼のあれだけの長寿と、しかもその長寿にしてなおかつ舞台に立ち得たことそれ自体が、なんとなく“文楽的”なものを感ぜしめたからなのである。かくして文楽の高貴さを身をもって造型していたところに、トレードマーク文五郎の有難さがあったのだ。

 文五郎は大阪島之内に生まれた。生家は小さな炭屋だった。明治初年の文楽座は西区松島町にあったのだが、それへ十六歳の文五郎は弟子入りした。明治七年のことだった。しかし間もなく彼は文楽座を去って当時、同座と対抗していた彦六座系の堀江座その他に中年すぎまで長く出勤した。もとの文楽座へ復帰したのは、すでに松竹が同座を植村家から買収した以後の大正初期で、そのとき彼はもう四十歳を出ていたはずだ。だから文五郎はその意味では生ッ粋の文楽人とはいえないかもしれない。その文楽座へ戻ったとき、月給が一躍五十円になって『こんなギョウサンいりまへん』と驚いたというはなしは有名である。

 生前の文五郎は女形づかいの名人として知られていたが、もともと彼は立役づかいなのだ。女形の人形を持ったのはその文楽座に復帰してからのことで、そのころ立役づかいの先輩に文三とか、多為蔵がいたので、自然と女形づかいにまわされたという。立役では「葛の葉」の保名など、彼の絶品とされていた。

 それよりも文五郎終生のライバルは初代の吉田栄三だった。芸質からすると栄三の内攻的な堅実派に対して、文五郎はどこまでもケンランたる様式派だったのだが、この対照の妙を得た立役づかいの名人栄三と女形づかいの名人文五郎のコンビは、昭和の文楽にかずかずの傑作を残した。

 その栄三が終戦直後大和法隆寺疎開先でさびしく、この世を去ったのにひきかえ、文五郎はかほどの長寿にめぐまれ、しかも死の直前まで舞台に立ち得た。はかりしれぬ人生の明暗であった。
 だが、実をいえば、意外にもこの長寿文五郎は若いころから胸部疾患があった。晩年は大阪国立病院長の布施信良博士が、その主治医だったのだが、彼は老境においてさえ、しばしば喀血(かっけつ)した。喀血しながら九十二歳の天寿を完うしたのである。医学的にそれはどう解明さるべきか知るところでないが、不可思議な人間生命力の顕現というほかない。

 文五郎は子供のころから文楽の修業に泣いた。彼の両足にはかつて師匠の先代吉田玉助に舞台ゲタで蹴られたキズあとがいくつか残っていた。一人前の人形つかいになりたい。あとにも先にもこれだけが彼のいのちをかけた願望だった。これ以外、彼は自分の人生からなに一つ要求しようとしなかった。人生の打算を知らなかった人、まことにそれは善意の人生だった。

 その善意のすべてが文五郎をあの底抜けに明るい童心の人とした。最近の一例をあげよう。先年豊竹山城少掾が引退した送別宴の席上で文五郎は『いま山城さんと別れることは私の父親を失う思いがいたします』と、いかにも真剣な顔で述べた。その父親と呼ばれた山城少掾のほうが文五郎よりはるかに若いのだ。満場の参会者はドッと笑った。

 大阪での“芸人馬鹿”の系譜は、先代中村鴈治郎、三代目竹本越路大夫、初代桂春團治、それにこの吉田文五郎と続く。それらは芸一筋のほか生きる知恵を持ち合わせていない人たちばかりなのだ。ここでいう馬鹿とは無欲の人生を意味する。どこまでも明るい屈たくのない無欲の生涯、これは最高の保健剤に違いない。現代医学を超脱した文五郎の“喀血の長寿”も、どうやらこのあたりで説明ができそうである。
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 文五郎を失った文楽は前述のとおり取っておきの登録商標をなくした形である。それは大きい損失だろうが、なんといっても近年の文五郎は日常生活においても歩行困難だった。わけて舞台は十キロにもおよぶ人形を持たねばならない。文五郎のうしろから、そのからだをささえるもうひとりの“文五郎づかい”が必要だった。
 それに彼は六十代のむかしからすっかり聴覚が衰えてしまっていた。ときおりひそかに聞こえる三味線合いの手だけをたよりにしていたのだ。文五郎の持ち役が十年一日がごとき「酒屋」のおそのや「妹背山」のお三輪に限られていたのは、それなら使いなれていて必ずしも聴覚を必要としないですんだからだ。新作狂言に出演しなかったのも同じくその理由による。
 
 いずれにしても今日の文五郎は、すでに文字どおりの過去の人にだったにすぎない。その意味で彼の死は文楽の将来に決定的なものを残さないであろう。ただ、文楽座がもっとも効率の高い唯一の登録商標を失った悲しみだけはたしかだ。文五郎について次代の文楽象徴する人材、それは因会(ちなみかい)三和会両派文楽に属する人たちの今後の努力のなかから新しく創り出されねばならないであろう。たとえ衰滅を嘆かれている悲運の文楽にしても… (山口記者)