めぐまれなかった晩年 団蔵の死  昭和41.6.5 毎日新聞(夕)劇評 山口廣一

 

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 この春、花の四月の東京歌舞伎座歌右衛門を筆頭にして勘三郎梅幸、勘弥、三津五郎ら豪勢な顔ぶれの歌舞伎公演で、近来にないにぎわいを見せた。その花やかさのなかで八世市川団蔵の引退披露狂言の『鬼一法眼菊畑(きいちほうげんきくばたけ)』『助六曲輪菊(すけろくくるわのももよぐさ)』が上演され、当の団蔵が見せる得意の鬼一に満場の観客席からは、この八十三歳の老優にはなむけの拍手がどよめいた。
 だが、そうした花やかさの舞台で、すでに団蔵は死を決意していたのではあるまいか。引退興行後直ちに東京を旅立った四国八十八カ所の巡礼路、そしてそれを終えた帰路の船中で姿を消した。死へのスケジュールがいかにもはっきりとたどれるからだ。死を目前にみつめながらの団蔵の鬼一…これは多数の観客のだれにも気づかれなかったまことに奇妙な<劇中劇>だったのである。

 市川団蔵の家系歌舞伎の名門中の名門だ。実父の七世団蔵は世にときめく九代目市川団十郎と対抗して、長く大阪道頓堀に居すわったことのある気骨の名優だった。故谷崎潤一郎はこの先代市川団蔵を口をきわめてほめたたえていた。
 こうした名門の出の八世団蔵だったが、晩年はきわめて不遇だった。とくにその庇(ひ)護者といえた中村吉右衛門が他界してから今日までの十数年間は役らしい役もつかず、いつも楽屋の片隅で黙々とひとりさびしく端座していた団蔵だった。古老中の古老俳優ながら、それだけに舞台裏ではとかく敬遠され勝ちだ。訪問する客も少なかった。八十を越え、かえるみる者もいない老残の孤独は、いかにも悲惨だ。生きるにたえない日々がつづいたに違いない。
 
 団蔵ほどの高齢の役者になると、とかく明治、大正期の歌舞伎芝居花やかだったよき時代への郷愁がつねに脳裏に去来して離れない。「今日の歌舞伎芝居は、団体客のための歌舞伎芝居で、本当のものではありません」「むかしの役者は歯を食いしばって芸をみがいたものです。今日の役者にはその気概がありません」…….そんな現代への反抗ともつかないグチが団蔵の重い口から時折漏れた。周囲の人たちはそれを“老いの繰りごと”として冷やかに黙殺した。そうした日常が、歌舞伎の花やかさの裏で、この孤独の老優に生きることへの絶望を次第に刻ませていったのではあるまいか。
 現代医学からすれば、これは別にめずらしくもない老化現象、えん世的人神経症とでも軽く診断されるかも知れないが視角をかえて見れば、この団蔵の死は歌舞伎の将来への死をもってする警告ともとれるのではあるまいか。いい換えれば、この老優の投身自殺は今日の歌舞伎が反省すべき多くの課題を内在させている事実を、ひそやかに指摘されたものとも解釈されるのである。(山口廣一)