「大和屋」が勝負  本興行の文楽座 S.37.2.4 毎日新聞 劇評 山口廣一

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 文楽で見る近松の原作もの、必ずしもおもしろくない。むしろ近松より後世の俗輩作家によって勝手気ままに改作されたもののほうが、かえっておもしろい実例のあるのは皮肉だ。
 今月の文楽座では近松の「天網島」の全編をほとんど原作に近く上演した。しかしその上の巻の「河庄」では端場の「口三味線」の段、中の巻の「紙治内」でも同じく端場の「ちょんがれ」の段といった後世の改作によるくだりをあわせ加えている。原作尊重の形式主義からすると、これは邪道的上演なのだが、実はこれでもおもしろさが倍加した。後世の改作の部分が義太夫の技巧的な面でぞんぶんにたのしませてくれるからなのだ。
 その「河庄」の段が掛け合いなのは残念だったが、春子大夫の治兵衛が若さのツヤで実力一杯に押しているのがよかった。土佐大夫の小春は一応としても、相生大夫が渋く落ちついた孫右衛門を聞かせてくれたのはまず年功というべきだろう。人形では栄三の治兵衛を筆頭に玉市の孫右衛門、玉五郎の小春とそろうと、今日の文楽での一級品である。
 「紙治内」から「大和屋」の段にかけての綱大夫では、その「紙治内」が前述したとおり近松の原作であるにしても舞台的には特に興味を添えるほどのこともなく”あとに見捨つる、子を捨つる”も単にうたい流すのでなく、母親としてのおさんの悲痛さを写実のイキで突っ込んでほしかったが、最後の「大和屋」の段のみはさすがに近松の原作が大きく光る。
  夜ふけの北の新地、寒々と冬の月が冴えている。茶屋の大和屋にいる小春を治兵衛が人目を避けて呼び出す。すでにふたりは死を決しているのだ。治兵衛が兄の孫右衛門が弟の不幸な予感に身をふるわせながら深夜の町々をかけまわっている。そうした情景の切々たる描写、登場人物それぞれの緊迫した心理の追及、近松の諸作品のうちでもかほどまでの筆力は得がたい。作品それ自体は二百年を経た古典狂言なのだが、この「大和屋」の段が観客に訴えてくるものは、まさに近代リアリズムの清新さである。いいかえればその迫真感の見事さである。今月の文楽ではなんとしてもこの「大和屋」が勝負を決めた。
 この一段における綱大夫はすでに定評がある。病後の非力を勘定に入れても、なお最初の夜まわりの番太のおぼろげな情趣から段切れのイキの詰まった三重まで、絃の弥七とともに依然この人の適格な佳品であることを示し得た。小春が表戸を抜け出る”しゃくって開くればしゃくって響き”のあたりなど、たまらなくおもしろい。
 話題をもとへ戻すが、右に入った改作ものの「紙治内」の端場「ちょんがれ」の段は若い織の大夫で興味をひいたが、まだまだ口の軽さが十分でない。一例をとれば”きかしいな、せわしいな”の対句など、もっとキッパリと皮肉に語りたく”恋ゆえじゃなあ”のとぼけたチャリもさらに一倍おかしみの味ををねらう勉強がしたい。
 相生大夫の「沼津」では最後の「千本松原」だけが掛け合いになっていたが、この掛け合いでの津大夫の重兵衛とその相生大夫の平作とが緊迫感でよく出来た。ただ人形での玉助の平作が”落ちつく先は九州相良”のあたりで、必要以上に舞台の奥にいる池添と瀬川とを意識するのは考えすぎた演技過剰である。