雪を忘れた「岡崎」 S.45.10 国立劇場  <演劇界>劇評 山口廣一

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伊賀越道中双六」
 鴈治郎仁左衛門と顔をあわせたほか出演俳優全部が全部、大阪役者であることは、なんとしてもよかった。もちろん大阪役者だからいいといっているわけでない。上方狂言上演での上方役者の純性がまもられていることがいいのである。序幕の「行家屋敷」の場に柝が入って幕があく。この幕あきの合方からしてすでに、その三味線のノリが江戸でなく、これは大阪だと私の耳には直ぐ知れた。そして私はこの芝居の行く手にそこはかとなき期待をかけたのだが、さて幕が進むにつれて、そうした期待が晩秋の街並木が一葉づつ大地に落葉させていくようなそんな寂寥感に変貌していったのは、一体全体、なぜだったのであろうか…。
 二幕目「郡山屋敷」の場、お谷と武助のくだりがあって、政右衛門の出になる。ここの呼び出しの義太夫の「心がけある侍は、地を這う虫も気を許さぬ」は文楽の専門語でいうところの、横隔膜をずしりと下腹部へ押さえた播磨地(はりまじ)の地色なのだ。そうした発声量感と、そうした発声の輪廓とが、やがて登場するであろうところの唐木政右衛門の人間的風格を、はじめて観客のイメージのなかに導入する。そんな意志と機能を持っているのだ。ところが、この場のチョボは、これをまるで江戸小唄のような鼻先の黄色い口腔音でこともなげに唄うのである。大きい被害は鴈治郎の政右衛門だった。
 その花道へかかった鴈治郎の政右衛門の第一印象は、どうにも上わ脊の足りないのがさびしい。こんな俳優の生理的な欠陥をあげつらうのは気がひけることだけれど、やはり見だてがない。
 だがそこはさすがに鴈治郎で、奥にゆくにしたがって時代と世話の流動する体線の使分けに洗練があり、上方芸の一つの原型のようなものを次第に提示して来る。もう少し正確にいうなら、それは時代よりもむしろ世話味の勝った演技、たとえば五右衛門の果し状を皮肉にとって「まずそれまではお許しくだされ」と上半身を前のめりに辞儀する瞬間、左肩を微かに落とすようなやわらかな曲線の描き方などは、正直にいって政右衛門らしくない味なのだけれど、それがまた義太夫の粘着質のリズム感とどこやらうまく密着していく。これはあきらかに上方芝居の美意識である。辛抱立役におけるこの式の時代四分に世話六分、といった逆の配分のおもしろさは、現在に継承された先代鴈治郎の大きい遺産といえる。
 
 三右衛門の宇佐美五右衛門が以外によくないのは困った。おそらく近年でのこの人の病弱にもよるのであろうが、こんな福徳円満型の微温的五右衛門では「饅頭娘」にならない。この場のもっとも演劇的なるものは、実はこの五右衛門と政右衛門との剛と軟との対比にあるのだ。激怒に身を震わせた五右衛門が投げかける罵声を、酔態の政右衛門がぬらりくらりと肩すかしで逃げるおもしろさがこの段の趣向なのである。こうした五右衛門の焦燥や激怒や正義感や、そしてそれらが最後に全部裏返しになって古武士の一徹な死の決意にいたるまでの経過が反動的にこの場での政右衛門の人間像を鮮明に浮き彫りにしていく。そんな対照効果の計算があるのだ。三右衛門の五右衛門はあきらかに存在の失格である。
 扇雀のお谷もよくない。この人の舞台がもっている一種肯定的な明るい雰囲気が、この場での武家の堅気の女房を否定する。扇雀の持ち前の得点がこのお谷では逆の減点にまわっているのだ。さらにいうなら、このお谷は下手の襖から頭巾姿で顔を出した最初の登場からウレイの肚でいるのが、あきらかにまったくの誤演である。政右衛門の後添いが妹のおのちと知るまでは、不安と疑惑と嫉妬のお谷であるべきで、ウレイでない。そのことは丸本に明示されている。 太郎の下僕武助も荷が勝ちすぎているし、性根もつかめていない。右にいったとおり、鴈治郎の政右衛門がせっかく上方芸の一つの典型としての辛抱立役を見せてくれているにもかかわらず、かくもワキの役々の誤演が揃っては、なんとも歯切れの悪い「饅頭娘」に終わる。演出が粗雑すぎた。
 次の「奉納試合」でも、鴈治郎の上脊の足りない、見てくれの悪さが気の毒だった。わけて松若の林左衛門がいささか並はずれて高いので、それが目立つ。床柱を背にして奉書を斜めに構えた形での、先代鴈治郎の立派さを思はず私は心の底で反芻していた。役柄が定型化している歌舞伎の場合、とくにそれぞれの役柄と俳優の肉体条件との相関における不可避の当否はおそろしい。それは単なる演技の形態に止まらなくて、演技の中核的なものまで決定づける。それがおそろしいというのだ。
 政右衛門の奉書に対して、大内記が太刀で立ち向かうのは、江戸系の長槍に対する上方系の主張である。(もっとも逆に文楽の人形では長槍なのだが)そして試合の下座も江戸系では“扇拍子”でゆくところを、上方系では合方入りである。とにかく格式張ったことを避けたがる上方人的感覚が、こんな歌舞伎演出の片隅にも顔を出しているようだ。
 誉田大内記は扇雀だが、最初の正面から出ての「誰々も出仕大儀」といったせりふの音程はもう半音ばかり高いがいい。青年藩主大内記の闊達な若さの表現としてである。だがそんなことよりも、扇雀の誤演がここでも一つ大きく注目された。政右衛門が林左衛門に討ち負けたあと、五右衛門が脇差しに手をかけようとするのを制しての「やれ待て、この場の切腹相叶わぬ」の語調にしても、正面奥へ引っ込む瞬間の五右衛門に投げる視線の思い入れにしても、それらに大内記の政右衛門への厚意をそれとなく形象させている。いはゆるハラを割っているのだ。これではあとの大内記と政右衛門の奉納試合が馴れ合いになってしまう。こう最初から大内記が自分の真意の在りどころを明示してしまっては、この芝居のトリック的興味を、観客から剥奪してしまうことになる。歌舞伎の、こんな素朴な趣向の掛け引きすら、わからないものか。不思議千万である。
 扇雀君ばかりを対象にして悪いのだけれど、ことのついでに申し上げておきたいのは、この場の幕切れで、花道にある鴈治郎の政右衛門に呼びかける大内記の「主従は三世ぢゃのう」のせりふを、ひどく哀切な、まるで泣き出すような感傷的語調で、その語尾を絶え入るばかりながながと伸ばしていたのが、コトバの演技として、どうにも類型すぎているということだ。
 扇雀にかぎらない。失礼ながら演技力の低下した近ごろの歌舞伎俳優諸君は、ウレイのせりふは、そのせりふの語尾を伸ばせば、それで十分表現できたものと至極安易に決めてかかっているのでないか。こんな単純幼稚な様式演技しか心得ていないのである。そこに演技創造のエネルギーの枯渇を見る。これも亦救いがたき歌舞伎の、今日的薄暮化である。
 義太夫での道行場に該当する「藤川新関」で、飛脚助平の遠眼鏡から趣向して、この場に「団子売」や「万才」の景事浄瑠璃を挿入するのは文楽式の演出だ。こんどもそれに倣って、ここへ長唄地の「松霞我彩色」なる所作を押し込み、秀公の太夫、孝夫の才蔵、秀太郎の鳥追いの三人を踊らせた。義太夫のチョボの人材難から、やむなく長唄地を選んだという弁解は読んだものの、やはりこの本格の義太夫狂言における細棹物の所作事は、どうも違和感が付着する。一歩ゆずって、そうした違和感のせんさくは措くとしても、この長唄地の所作そのものの内容がさしていただけるものとも受けとれず、右の若い三人の振りごとにもそれぞれ不満が残ったうえ、その歌詞に俳優片岡家の私的な祝儀が唄い込まれているようなところが、公的劇場としての国立劇場での上演だけに、いささか意識のうえでの、すっきりしないものを感じさせる。おかしなことだ。
 
 演技評にもどる。ここでの飛脚助平にすでに年齢的に過重な動きの期待されぬ璃珏を選んだのは、むしろ痛々しかった。いかにも老人の冷や水めいた疲労が先に立って、この役の跳躍的なおもしろみがどこにも発見し得なかった。かてて加えてこの人のせりふの発音がひどく不明瞭でほとんどなにをいっているか聞きとれない。
 もし私なら、この助平に若い人気スターの孝夫君を配してみる。そして十分伸び伸びとやらせたうえ、この助平を中心とした別の企画の義太夫地のおかしみで処理してみたい。もちろん、これはなんの責任もないほんの私の、即興的演出案なのだけれど…。
 八ッ目の「岡崎」を端場から比較的ていねいに上演したのは本格的な試みでよかったのだが、松柏の眼八(がんぱち)が騒々しいばかりで、文楽でのこの端場における幸兵衛と眼八との取り合いのおもしろさなど毛頭のぞめなかった。
 秀公の志津馬と秀太郎の組み合わせである。その秀公の志津馬ではせりふの間をせき込むのが欠点だ。秀太郎のお袖は後半で尼のくだりがないので寂しいのだが、神妙に実力だけで見せていたのが得点につながる。
 舞台を半まわしにして、雪の竹薮の門外になると、「逃れて急ぐあとよりも」のオクリで花道から菰ござで身を隠した政右衛門が駆け出る。七三でその菰ござから顔をのぞかせる。頬かむりの手拭の花紺めいた鮮やかな色合いがいかにも効果的だ。老境に入ってからの鴈治郎の顔は次第に彫りが深くなって陰翳の渋い美しさが出て来た。もともとこの人の顔は治兵衛や忠兵衛の顔でないのだ。世評に楯つくようだけれど、このことはここで改め確認しておきたい。その説明の余裕はないが、あの顔は辛棒立役の顔だ。その辛棒立役の顔に年齢から来る古色が加わった。そんな美しさなのである。
  捕手との立ちまわりになる。上脊の足りない小柄の政右衛門は依然としてハンディキャップであり、「ほぐれをとって真っ逆さま」で捕手を投げた見得など、形が生きて来ない。幸兵衛に危機を救われて「見苦しけれど拙者が宅へ」と案内されるのを受けての「然らば、ご免」には義太夫の皮肉さがある。かって山城少掾なども、わずかなこの一句をひどく気にしていた。ご参考までに申し上げるなら、「然らば」をコトバに取り、つぎの「ご免」からフシに取るのだが、その「ご免」の音づかいで、この見知らぬ親爺の厚意を不審がる政右衛門の疑惑の心理を摘出しようとする技巧なのである。偶然の一致かも知れないが、鴈治郎の政右衛門が、この一言に意識的なアクセントを添えていたのは、多少ともそうした義太夫の皮肉を心得ていた結果だろうか。もしそうなら、それはあきらかに先代鴈治郎ゆづりに違いない。
 仁左衛門の幸兵衛もあの顔のつくりが人形での鬼一ガシラを思わせていたのが一興である。からだの動きにもう一つ腰の切れない感じはこの人のいつもの欠点なのだが、せりふに義太夫言葉の幅を利かせて量感をねらっているのがよい。この幸兵衛と政右衛門とが「尽きぬ師弟の遠州行燈かき立てかき立て」で名乗り合うイキはおもしろく出来た。そしてここでも鴈治郎のその政右衛門が両手をついて顔を心もち斜めにもっていくやわらかな首から肩への描線に、上方芸の色気というか情感というか、そんなものが瞬間の閃光として光る。
 幸兵衛が出ていったあと「そとは音せで降る雪に」から、花道のお谷の出になるのだが、照明がああまでベタに明るいのは神経がなさすぎた。このくだりは多少とも照度を落として、やがてはじまるであろうお谷の苛酷な悲劇にそなえるべきだった。それがこの場の作意でもあり模様(抒情表現)でもあるのだ。雪の夜の暗さの底を匍う母と子の慟哭、そんな感覚的なものが、舞台の効果の上にも用意されていなければいけない。
 その扇雀のお谷が花道から舞台へかかると、下手から小提灯をさげた夜まわりの親爺が登場する。その吉三郎の夜まわりにまったく芝居っ気がなかったのは致命的である。この一役は決して単なる点景人物でないはずだ。それはこの場の実感誘導の、もっとも重要な反射盤ともいえるのである。演技の巧拙の以前に問題があるのである。演出がさらに粗雑だ。
 扇雀のお谷も一応の努力はわかるにしても、演技の軸点になるものがこれもまったくつかめていないようだ。第一、前記の夜まわりにしても、このお谷にしても、それらの演技のいずれの端からでも観客は、丸本に指定されたこの雪の夜の“氷のような”寒気の一端すら、果たして実感として受け取り得たであろうか。雪の寒気のない「岡崎」を、少なくとも、私ははじめて見た。
 お谷が雪のなかに悶絶すると、政右衛門が戸口へ出て枯柴をくすべて暖を取らせ「気を張りつめて必らず死ぬな」の絶叫から「この年月の悲しさとうれしさこうじて足立たず、菰に積りし雪のまま、着せてチンテンテン」の拍子オクリの三味線のおもしろさまで、この一幕の最高潮であるべきくだりが、鴈治郎の政右衛門にも扇雀のお谷にも、まったく演技の手順が出来ていない平凡さで、芝居の興奮がどこにも盛りあがってこなかった。
 さらに、鴈治郎の政右衛門についていうなら“莨切り”での包丁の音が演技とハンマ、ハンマにはいって耳ざわりだったこと。それにしじゅう顔を正面に向けていたのも、どうした解釈か。妙でないか。ここはそばで糸を繰る母親に気取られまいと、視線煙草を刻む手もとに落としながら、雪の戸口にたおれた女房と子供に全身の神経を尖らせている絶体絶命の場における血みどろな精神の痛み、そんなもののせめて一端でも、鴈治郎の芸として見たかったと思う。
 
 各場を通じて強いて選ぶとするなら「饅頭娘」での鴈治郎と「岡崎」での仁左衛門の幸兵衛との一応の格闘ということになろうが、総評としては失敗の『伊賀越』である。演出の安易さ、演技の安易さ、そんな割り切れぬ安易さを見たことは悲しい。
 上方役者の純性で採あげられた上方系の義太夫狂言だという私の最初の期待からして、すでに同じく安易だったのであろうか。どうにも捨てどころのない苛ら苛らした気持ちで。午後十時、帰りの劇場バスのなかに、黙々として私はあった。

"江戸系の情緒"  四月の新歌舞伎座 S.47.4.12 毎日新聞 劇評 山口廣一

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 およそ俳優は演技力のほかにそれとの関連において個々の肉体がかもし出す情緒的な可能性をそれぞれに持っている。いわゆる役者の持味と称されるものがそれなのだが、今月の『江戸育お祭佐七』での勘弥の佐七などを見ていると、そうした持味のたのしさが、いかにもよくわかる。
 たとえば芸者小糸の変心を怒って、手もとにある煙草盆を右手に振りあげた瞬間、その上腕部と直角になる線上に顔を斜めにまげる。このシンメトリーの破り方に、勘弥の江戸前役者としての身についた情緒的なものの美が凝縮されているのである。
 こうした江戸狂言のもつ情緒的色調を、みずからの肉体で造形し得る歌舞伎役者も次第に少なくなってきた。この意味では今月の勘弥もすでに貴重な無形文化財といえる。
 この狂言自身は明治中期の凡作ではあるのだが、いま言ったような勘弥の演技とその情緒のたゆたいを味わうには持って来いの狂言だ。
 この式の狂言のあとで『大石最後の一日』を見るとあきらかに後者の戯曲としての格調の高さが知れる。仁左衛門の大石は後半になると、表面的な具象演技で内面的なものを説明しようとする一種の入念さがかえってよくなかったけれど、前半での娘おみのの男装にさり気なく目をやるあたりに、老練さをのぞかせていた。
 秀太郎のそのおみのが悪くない。今月は秀太郎が役々それぞれ成功しているようだが、とくにこのおみのの好演を認めておく。ただし演技が興奮してくるとセリフの音階が急昇して黄色っぽい声になるのは抑制したいものだ。
 孝夫に玉三郎を組合わせた売り出しコンビに『番町皿屋敷』と書換え狂言『お静礼三』とを与えているが、文句なしに前者に軍配があがる。
 演技も前者での孝夫の播磨はセリフの音質のさわやかさに魅力があり、玉三郎のお菊も風情の清純さと、心理的なものへ神経をよく行きとどかせている努力を認めたい。
 要するに、孝夫も玉三郎歌舞伎の年齢を若返らせた感じが、なによりお手柄なのだが、それだけに今後ともこの若いふたりを甘やかせて、若いエネルギーの停滞を早めないだけの警戒がいる。(山口廣一)
                             

「大和屋」が勝負  本興行の文楽座 S.37.2.4 毎日新聞 劇評 山口廣一

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 文楽で見る近松の原作もの、必ずしもおもしろくない。むしろ近松より後世の俗輩作家によって勝手気ままに改作されたもののほうが、かえっておもしろい実例のあるのは皮肉だ。
 今月の文楽座では近松の「天網島」の全編をほとんど原作に近く上演した。しかしその上の巻の「河庄」では端場の「口三味線」の段、中の巻の「紙治内」でも同じく端場の「ちょんがれ」の段といった後世の改作によるくだりをあわせ加えている。原作尊重の形式主義からすると、これは邪道的上演なのだが、実はこれでもおもしろさが倍加した。後世の改作の部分が義太夫の技巧的な面でぞんぶんにたのしませてくれるからなのだ。
 その「河庄」の段が掛け合いなのは残念だったが、春子大夫の治兵衛が若さのツヤで実力一杯に押しているのがよかった。土佐大夫の小春は一応としても、相生大夫が渋く落ちついた孫右衛門を聞かせてくれたのはまず年功というべきだろう。人形では栄三の治兵衛を筆頭に玉市の孫右衛門、玉五郎の小春とそろうと、今日の文楽での一級品である。
 「紙治内」から「大和屋」の段にかけての綱大夫では、その「紙治内」が前述したとおり近松の原作であるにしても舞台的には特に興味を添えるほどのこともなく”あとに見捨つる、子を捨つる”も単にうたい流すのでなく、母親としてのおさんの悲痛さを写実のイキで突っ込んでほしかったが、最後の「大和屋」の段のみはさすがに近松の原作が大きく光る。
  夜ふけの北の新地、寒々と冬の月が冴えている。茶屋の大和屋にいる小春を治兵衛が人目を避けて呼び出す。すでにふたりは死を決しているのだ。治兵衛が兄の孫右衛門が弟の不幸な予感に身をふるわせながら深夜の町々をかけまわっている。そうした情景の切々たる描写、登場人物それぞれの緊迫した心理の追及、近松の諸作品のうちでもかほどまでの筆力は得がたい。作品それ自体は二百年を経た古典狂言なのだが、この「大和屋」の段が観客に訴えてくるものは、まさに近代リアリズムの清新さである。いいかえればその迫真感の見事さである。今月の文楽ではなんとしてもこの「大和屋」が勝負を決めた。
 この一段における綱大夫はすでに定評がある。病後の非力を勘定に入れても、なお最初の夜まわりの番太のおぼろげな情趣から段切れのイキの詰まった三重まで、絃の弥七とともに依然この人の適格な佳品であることを示し得た。小春が表戸を抜け出る”しゃくって開くればしゃくって響き”のあたりなど、たまらなくおもしろい。
 話題をもとへ戻すが、右に入った改作ものの「紙治内」の端場「ちょんがれ」の段は若い織の大夫で興味をひいたが、まだまだ口の軽さが十分でない。一例をとれば”きかしいな、せわしいな”の対句など、もっとキッパリと皮肉に語りたく”恋ゆえじゃなあ”のとぼけたチャリもさらに一倍おかしみの味ををねらう勉強がしたい。
 相生大夫の「沼津」では最後の「千本松原」だけが掛け合いになっていたが、この掛け合いでの津大夫の重兵衛とその相生大夫の平作とが緊迫感でよく出来た。ただ人形での玉助の平作が”落ちつく先は九州相良”のあたりで、必要以上に舞台の奥にいる池添と瀬川とを意識するのは考えすぎた演技過剰である。

めぐまれなかった晩年 団蔵の死  昭和41.6.5 毎日新聞(夕)劇評 山口廣一

 

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 この春、花の四月の東京歌舞伎座歌右衛門を筆頭にして勘三郎梅幸、勘弥、三津五郎ら豪勢な顔ぶれの歌舞伎公演で、近来にないにぎわいを見せた。その花やかさのなかで八世市川団蔵の引退披露狂言の『鬼一法眼菊畑(きいちほうげんきくばたけ)』『助六曲輪菊(すけろくくるわのももよぐさ)』が上演され、当の団蔵が見せる得意の鬼一に満場の観客席からは、この八十三歳の老優にはなむけの拍手がどよめいた。
 だが、そうした花やかさの舞台で、すでに団蔵は死を決意していたのではあるまいか。引退興行後直ちに東京を旅立った四国八十八カ所の巡礼路、そしてそれを終えた帰路の船中で姿を消した。死へのスケジュールがいかにもはっきりとたどれるからだ。死を目前にみつめながらの団蔵の鬼一…これは多数の観客のだれにも気づかれなかったまことに奇妙な<劇中劇>だったのである。

 市川団蔵の家系歌舞伎の名門中の名門だ。実父の七世団蔵は世にときめく九代目市川団十郎と対抗して、長く大阪道頓堀に居すわったことのある気骨の名優だった。故谷崎潤一郎はこの先代市川団蔵を口をきわめてほめたたえていた。
 こうした名門の出の八世団蔵だったが、晩年はきわめて不遇だった。とくにその庇(ひ)護者といえた中村吉右衛門が他界してから今日までの十数年間は役らしい役もつかず、いつも楽屋の片隅で黙々とひとりさびしく端座していた団蔵だった。古老中の古老俳優ながら、それだけに舞台裏ではとかく敬遠され勝ちだ。訪問する客も少なかった。八十を越え、かえるみる者もいない老残の孤独は、いかにも悲惨だ。生きるにたえない日々がつづいたに違いない。
 
 団蔵ほどの高齢の役者になると、とかく明治、大正期の歌舞伎芝居花やかだったよき時代への郷愁がつねに脳裏に去来して離れない。「今日の歌舞伎芝居は、団体客のための歌舞伎芝居で、本当のものではありません」「むかしの役者は歯を食いしばって芸をみがいたものです。今日の役者にはその気概がありません」…….そんな現代への反抗ともつかないグチが団蔵の重い口から時折漏れた。周囲の人たちはそれを“老いの繰りごと”として冷やかに黙殺した。そうした日常が、歌舞伎の花やかさの裏で、この孤独の老優に生きることへの絶望を次第に刻ませていったのではあるまいか。
 現代医学からすれば、これは別にめずらしくもない老化現象、えん世的人神経症とでも軽く診断されるかも知れないが視角をかえて見れば、この団蔵の死は歌舞伎の将来への死をもってする警告ともとれるのではあるまいか。いい換えれば、この老優の投身自殺は今日の歌舞伎が反省すべき多くの課題を内在させている事実を、ひそやかに指摘されたものとも解釈されるのである。(山口廣一)

玉葉、羽左衛門、喜多村 里見弴の素顔  山口久吉(サントリー美術館)

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 終戦間もなくのころ先生(里見弴)と京都へゆき、三条大橋東のしもたや風の宿に泊まった。夜十一時近くになって一人の女性が現れた。一見して祇園芸者と知れたが、背のスラリとした美人で京風というよりは東京、それも柳橋か葭町の感じだった。すぐ酒になった。
 先生とこの女性は戦争をはさんで随分ご無沙汰だったらしく、話は次から次へと途切れがない。私はやがて自分の部屋に引き下がったが、翌朝、宿の朝風呂を済ませたころ先生が起きてこられて、食事のとき、

「あいつは玉葉といって、古い馴染みなんだ。朝五時まで飲んで帰ったよ」
 その後お良さんが亡くなられてから、また先生と京都へ行って先生の定宿「佐々木」に泊まった。この時も玉葉が年輩の芸者二人とはいってきて、これからお良さんの追悼をやろうという。この時のことは先生も短編『いとしき女』で書いておられるが、お良さんのことは一切口にすまいというのがその場の約束だった。床の間に香を薫いて静かに地唄を捧げると小説にあるが、地唄だけではなかった。
 長唄も出た。清元、新内もでた。盃が廻ってそれぞれ微酔を帯びていながら、その底では泣いていた。あんな物悲しい追悼の席を見たことがない。小説にある通り玉葉は、その後東山の疎水に身を投げて自殺した。私は新聞で知ったのだが、理由(わけ)は知らない。もう三十年も前だ。あの追悼の席に玉葉がいたのに、あの追悼は玉葉のためだったと、時折、勘違いすることがある。
 お良さんにお別れの日、白菊で埋まった寝棺に先生が崩れるように我をれて慟哭された姿は、強く印象に残っているが、数日後、先生が「お良は可哀そうなことをした。何もしてやれなかった」とポツリといわれたことがある。「お良さんはあんなに大事にしてもらったじゃありませんか」と私はやっとそれだけをいったがそんな通り一辺の言葉に先生の返事は返って来なかった。
 
 麹町のお宅へ私が初めて伺ったのは四十七、八年前になる。先生との応対はいつも玄関先で上へあがることなかったが、ある時原稿をいただきに行ったら「あと三十分ほどだから、あがって待ってて頂戴」とお良さんにいわれて茶の間へ通り、長火鉢の前でお良さんと世間話のうち芝居の話になり、市村羽左衛門の話に及ぶと意気投合、それ以来、私はお良さんに信用してもらえるようになった。先生は大正の初め『妻を買ふ経験』の頃は大阪南区笠屋町の生活で、その頃私は少し離れた西区新町の小学校の三、四年生だった。先生はケツネうどんや高野豆腐の味がわかり、誓文払の心斎橋の賑わいもご存じだったから、私が喋る大阪の話にも耳を傾けてもらえた。お良さんと同じ羽左衛門びいきの先生に『羽左衛門伝説』をお願いすることになるのも何かの縁といえそうだ。
 『羽左衛門伝説』は毎日新聞の夕刊小説で、その一つ前に与謝野晶子主題にした佐藤春夫さんの『晶子曼荼羅』が連載中だった。当時毎日新聞は、作者の希望次第では新仮名も当用漢字も使わず、古いままで通した。佐藤さんは殊に漢字、用字を大切にされたから、これが一般読者には読めない、わからないということになって、投書が殺到した。次は里見さんである。社の上層部は頭が痛い。
 「里見さんには易しく書いてもらえ」というのである。そんな無理をどうしていえよう。「佐藤に許したことを俺には許せないのか」といわれればそれまでである。でも社命となれば致方なく、恐る恐る扇ヶ谷へ伺った。
 しばらく怒りを押さえる様子の先生は、やがて、
「俺は俺の好きなようにしか書けない。君がいいように書き直せ。単行本も君の方から出るが、これは別だよ」
 これでどうにかホッとしたが、先生の原稿を毎回新仮名に直し、むずかしい漢字、用字を易しくするのは気の疲れる仕事だった。先生の原稿には一切手を触れずそのまま、出版局へ回して、これが単行本用の原稿になった。

先生がある時「俺は羽左衛門の前に出ると口がきけないのだよ」といわれたことがある。好きな女の前で口がきけない。「まるで気の弱い中学生じゃありませんか」といったら「その通りだよ」と笑っておられた。一通りの惚れようではなかった。「羽左衛門伝説」のさし絵の木村荘八さんも劣らぬ羽左衛門ファンだったから、あの仕事は二人共通の恋人を両方楽しんでいたようなもので、お二人の間には毎日のように手紙が往復した。殊に木村さんの手紙は絵入りで楽しかった。その一部は先年出た『絵のある手紙』(中央公論美術出版社)に収録されている。
                       *

 喜多村緑郎日本食より洋食が好き、ビフテキが好き、葉巻は手から放したことがない。この喜多村を扇ヶ谷のお宅へに呼んで、大佛さん、木村さん、演劇出版社の利倉幸一さんなどと“喜多村にものを聞く会”を催されたことがある。
 昭和三十八年八十九歳で喜多村は他界するが、その二年前のことである。血色もよく、記憶もいい。しゃべり出すと淀みがなかった。横で大佛さんが「九十近くもなって舞台へ立つなんて世界に類がないよ」と驚いておられた。
 その時喜多村の話は新派よりも彼が若い頃十年ほどいた大阪の、特に歌舞伎の話が多く、実川延若(先代)の団七に尾上卯三郎の羲平次の「夏祭浪花鑑」など、これは私も子供のころ見ているので喜多村の口から聞くと卯三郎の写実芸が一層面白かった。先生も面白いからこの会は月一回はやろうよといわれたが、結局二回ほどで続かなかった。

 翌年一月、喜多村は尿毒症と肺炎で一時危篤が伝えられた時、先生は私を呼んで、小さな包みを出された、
「これは母が自分でつくった家宝の薬でね、死んだ人間の肝をとってサフランや金粉を混ぜてつくる、いわば秘薬だ。つくるとき強い香料の匂いで部屋は息もできないくらいだ。父が危篤の時これで助かっている。これを喜多村へ届けてくれないか。半分届けて、あとの半分は俺のいざという時に使うからね」と笑いながら紙包みの上に筆で「人胆(じんたん)」と書かれた。の秘薬のおかげかどうか、喜多村の死はそれから一年ほど後のことになる。
 今回、先生の最後に残り半分の「人胆」がつかわれたかどうか。私はまだくわしいことを聞いていないが「生あるものには死がある。初めあれば必ず終りがある」と先生は最近よくいっていられた。所詮天命と、諦観はあったのだろうと想像はするが、それにしても無性に淋しいというほかない今日この頃である。(昭和58年)

復活場面の意欲 文楽の帰国記念公演 昭和49.7.26 毎日新聞(夕)劇評・山口廣一

 

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 日本では突っかえ棒がないと自立できないはずの
文楽が、異国パリでの六月公演三十日間を文字どおりの連夜満員にして帰って来た。その皮肉が話題を呼んでいるのだが、七月の朝日座はその帰国公演である。
 しかも長い旅路の疲労を見せず昼の部の鎌倉三代記では「入墨の段」から「米洗いの段」まで、夜の部の「艶容女舞衣」では「美濃屋の段」を、それぞれ新しく復活させたのは見事だ。ただし残念なことに後者の「美濃屋の段」は南部大夫と燕三の好演があるにしても、作品自体さして効果のある語り場と思えず、この復活のみは減点。
  前者の「入墨の段」は十九大夫と道八。百姓に身をやつした佐々木高綱が敵陣に捕らえられ顔に入墨されるおかしみ。取り立てるほどのうまさでなかったものの、久々の上演だけにおもしろく聞けた。絹川村閑居の端場にあたる「米洗いの段」はいわゆるチャリ場の典型である。蓑助のつかう村の女房おらちが下賤な動作で笑わせる。ここでの伊達路大夫を今月の奨励賞とする。
 切場の「高綱物語」は津大夫だが、合三味線の寛治が休演で勝太郎が代役にまわっているせいもあってか、むやみに怒号するコトバが逆に印象を散漫にする。この人の否定面がそのまま出た。人形では”親につくか、夫につくか、返答いかに”で清十郎の時姫に詰め寄る勘十郎の三浦之助の左足を前に出した瞬間の形が美しい。人形のえがく人形の詩心が伝わって来る思いだった。
 「酒屋」の前半の呂大夫はむしろ苦手の語り場で成績もよくないが、今後ともこの人には敢えてこの式の語り場を与えて、軽い発声の勉強をさせることだ。
 越路大夫のその後半は相変わらず人情の”渇き”めいたものを感じさせる。今日での最高の「酒屋」だけに惜しい。三味線の喜左衛門が健在。
=三十日まで。(山口廣一)

文五郎の死と文楽  芸一筋に善意の人生  昭和37年2.25 毎日新聞(朝)追悼・山口廣一 

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 死んだ文五郎は
文楽座のトレードマークだった。このトレードマークは全国津々浦々でも通っていて、あるいはその名は世界的(?)であったかもしれない。文楽などまったく見向きもせない若い世代の人たちでさえ、吉田文五郎と聞けば、それが高名の人形つかいだということくらいは知っていよう。
 今日の文楽はなんといっても古色ソウ然たる伝統芸術だ。それは三百年以上におよぶ長い歴史を背負っている。いいかえればその歴史の古さが今日の文楽の高貴さなのである。そこへゆくと、あの古色ソウ然たる九十翁・吉田文五郎の存在は、そのまま文楽のそうした古い歴史の高貴さを象徴していたのである。文五郎の偉さは必ずしも彼の芸術が立派だったばかりでない。彼のあれだけの長寿と、しかもその長寿にしてなおかつ舞台に立ち得たことそれ自体が、なんとなく“文楽的”なものを感ぜしめたからなのである。かくして文楽の高貴さを身をもって造型していたところに、トレードマーク文五郎の有難さがあったのだ。

 文五郎は大阪島之内に生まれた。生家は小さな炭屋だった。明治初年の文楽座は西区松島町にあったのだが、それへ十六歳の文五郎は弟子入りした。明治七年のことだった。しかし間もなく彼は文楽座を去って当時、同座と対抗していた彦六座系の堀江座その他に中年すぎまで長く出勤した。もとの文楽座へ復帰したのは、すでに松竹が同座を植村家から買収した以後の大正初期で、そのとき彼はもう四十歳を出ていたはずだ。だから文五郎はその意味では生ッ粋の文楽人とはいえないかもしれない。その文楽座へ戻ったとき、月給が一躍五十円になって『こんなギョウサンいりまへん』と驚いたというはなしは有名である。

 生前の文五郎は女形づかいの名人として知られていたが、もともと彼は立役づかいなのだ。女形の人形を持ったのはその文楽座に復帰してからのことで、そのころ立役づかいの先輩に文三とか、多為蔵がいたので、自然と女形づかいにまわされたという。立役では「葛の葉」の保名など、彼の絶品とされていた。

 それよりも文五郎終生のライバルは初代の吉田栄三だった。芸質からすると栄三の内攻的な堅実派に対して、文五郎はどこまでもケンランたる様式派だったのだが、この対照の妙を得た立役づかいの名人栄三と女形づかいの名人文五郎のコンビは、昭和の文楽にかずかずの傑作を残した。

 その栄三が終戦直後大和法隆寺疎開先でさびしく、この世を去ったのにひきかえ、文五郎はかほどの長寿にめぐまれ、しかも死の直前まで舞台に立ち得た。はかりしれぬ人生の明暗であった。
 だが、実をいえば、意外にもこの長寿文五郎は若いころから胸部疾患があった。晩年は大阪国立病院長の布施信良博士が、その主治医だったのだが、彼は老境においてさえ、しばしば喀血(かっけつ)した。喀血しながら九十二歳の天寿を完うしたのである。医学的にそれはどう解明さるべきか知るところでないが、不可思議な人間生命力の顕現というほかない。

 文五郎は子供のころから文楽の修業に泣いた。彼の両足にはかつて師匠の先代吉田玉助に舞台ゲタで蹴られたキズあとがいくつか残っていた。一人前の人形つかいになりたい。あとにも先にもこれだけが彼のいのちをかけた願望だった。これ以外、彼は自分の人生からなに一つ要求しようとしなかった。人生の打算を知らなかった人、まことにそれは善意の人生だった。

 その善意のすべてが文五郎をあの底抜けに明るい童心の人とした。最近の一例をあげよう。先年豊竹山城少掾が引退した送別宴の席上で文五郎は『いま山城さんと別れることは私の父親を失う思いがいたします』と、いかにも真剣な顔で述べた。その父親と呼ばれた山城少掾のほうが文五郎よりはるかに若いのだ。満場の参会者はドッと笑った。

 大阪での“芸人馬鹿”の系譜は、先代中村鴈治郎、三代目竹本越路大夫、初代桂春團治、それにこの吉田文五郎と続く。それらは芸一筋のほか生きる知恵を持ち合わせていない人たちばかりなのだ。ここでいう馬鹿とは無欲の人生を意味する。どこまでも明るい屈たくのない無欲の生涯、これは最高の保健剤に違いない。現代医学を超脱した文五郎の“喀血の長寿”も、どうやらこのあたりで説明ができそうである。
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 文五郎を失った文楽は前述のとおり取っておきの登録商標をなくした形である。それは大きい損失だろうが、なんといっても近年の文五郎は日常生活においても歩行困難だった。わけて舞台は十キロにもおよぶ人形を持たねばならない。文五郎のうしろから、そのからだをささえるもうひとりの“文五郎づかい”が必要だった。
 それに彼は六十代のむかしからすっかり聴覚が衰えてしまっていた。ときおりひそかに聞こえる三味線合いの手だけをたよりにしていたのだ。文五郎の持ち役が十年一日がごとき「酒屋」のおそのや「妹背山」のお三輪に限られていたのは、それなら使いなれていて必ずしも聴覚を必要としないですんだからだ。新作狂言に出演しなかったのも同じくその理由による。
 
 いずれにしても今日の文五郎は、すでに文字どおりの過去の人にだったにすぎない。その意味で彼の死は文楽の将来に決定的なものを残さないであろう。ただ、文楽座がもっとも効率の高い唯一の登録商標を失った悲しみだけはたしかだ。文五郎について次代の文楽象徴する人材、それは因会(ちなみかい)三和会両派文楽に属する人たちの今後の努力のなかから新しく創り出されねばならないであろう。たとえ衰滅を嘆かれている悲運の文楽にしても… (山口記者)